日本人が最も大好きな歴史上の人物の1人、織田信長。
そんな織田信長は檜風呂を愛していた、というのは本当なのでしょうか?
織田信長と檜風呂の関係性を探ってまいります。
織田信長の人物像
織田信長は、どんな人柄だったのでしょうか?
織田信長の人物像については、宣教師ルイスフロイスがまとめた「日本史」の記述が最も的確だと言われています。
“彼(信長)は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。”— ルイス・フロイス、完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)[1]
この記述によると、勇敢で正義感に溢れ、愛情と信念も持っている、そんな人物だったことが想像できます。
かなりリーダシップが強く、悪く言えば頑固だったかもしれません。
実際に、信長は困難を極める数々の戦を紙一重で勝ち上がり、天下統一まであと一歩でした。
その人物像に好感を持つ日本人は数多く、今でも織田信長を題材とした作品が続々と生まれています。
豪華絢爛な住める城、安土城
織田信長の功績のひとつとして、安土城の築城があります。
安土城は、これまでのお城とは大きな違いがありました。それは「戦うための城」ではなく「見せるための城」だったということです。
安土城は、豪華絢爛なつくりが特徴ですが、戦うための城であれば豪華にすることは敵に目標を示すことになり、逆効果です。
信長は安土城の築城により、自身の権威を示したとされています。
城下で相撲大会を開いたり、天主をライトアップするなど、これまでにないイベントを開いたりもしました。[2]
また、城に住んだのは、信長が最初と言われています。
信長は、城の存在意義、定義を変革することもしていたということが分かります。
安土城には檜が使われていた
信長が安土城を築城したエピソードを描いた「火天の城」という作品があります。主人公は、岡部又右衛門という宮大工で、信長の無茶なオーダーに応えようと奔走します。岡部が考えた城の設計を実現するには、城の支柱となる大きくて長い丈夫な木が必要でした。ここで登場するのが、檜です。岡部は木曽の檜が最適だと思いつき、檜を手に入れるための旅に出て、安土城の完成を目指すという話です。
また、安土城は現在の滋賀県近江八幡市にあります。檜は、福島以南から九州まで分布しており、滋賀県も檜の生産地のひとつです。
安土城は、すでに消失しており、外観については謎が多いですが、海外には安土城のスケッチと言われるものが残っています。
そのスケッチによると、城の上部は瓦屋根が描かれていましたが、下部には瓦屋根ではない違う形のものが描かれており、それが檜皮葺であったと想定されています。
織田信長は檜風呂を愛していた
織田信長は檜風呂を愛していたかということについて、明確な記録は残っていません。
ただ、信長は自身が建てた安土城で生活をしていた、安土城には檜が建材として使われていた、ということを踏まえると、日常生活に必要なお風呂も檜で作られていた可能性が高いと考えられます。
戦国時代までは、風呂に浸かるという文化はまだなく、サウナのような蒸し風呂とかけ湯が一般的でした。
風呂を作る技術がそこまで進んでいなかったとすると、城の建材にも使われていた檜で風呂を作ったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
信長は、戦の後に、檜風呂で体を癒し次の戦略を思い巡らせていたのです。
エステックアソシエイツは、信長同様、技術の伝統と変革を持って最高品質の檜風呂造りに邁進してまいります。