銭湯の歴史と檜風呂
みなさん、銭湯に行ったことはありますか?実は、東京には約560もの銭湯があり(2019年現在)、銭湯はもともと江戸を中心に広がった文化です。
その銭湯にあるお風呂は、今はタイルや石でできたお風呂がほとんどですが、タイルが登場したのは大正時代のことでした。江戸時代は全て木でできていました。つまり、江戸時代では檜風呂が主流だったのですね。
ということで、檜と関連の深い銭湯の歴史を振り返りたいと思います。
この記事では、銭湯の起源である飛鳥時代から銭湯文化が本格化した、江戸時代の銭湯の歴史を見ていきます。
銭湯の起源
銭湯の起源は、6世紀の飛鳥時代、聖徳太子の頃に遡ります。その頃日本で広まった仏教では、汚れを洗うことが仏に仕えるものの重要な仕事である、という教えがあったため、寺院には「浴室」または「温室」が設けられました。
当初は、僧侶が身を清める部屋として使われていましたが、そのうち、庶民の間でも評判が広がり、浴室や温室を庶民に無料開放する「施浴」が始まりました。これが銭湯(公衆浴場)の起源です。
施浴の文化は、鎌倉時代、平安時代と受け継がれていき、江戸時代に最初の「銭湯」が誕生しました。
江戸時代の銭湯
江戸時代最初の銭湯は、1591年に伊勢与市が日本橋付近に建てたと言われています。当時の江戸は、徳川家康が入城し、発展の真っ只中。多くの労働者が、銭湯に通って身体を癒していたそうです。
現代は1日中営業している銭湯は少ないですが、当時の江戸では、日の出の30分前から日没の30分後まで営業していたそうです。
現在は、お湯を張るタイプの銭湯が主流ですが、最初の銭湯はお湯のない蒸し風呂形式。お湯を沸かすのは、火事になりやすくお金も手間もかかるためです。しかし、人々にはお湯がある形式の方が好まれたため、徐々に蒸し風呂は減っていきました。
昔ながらの東京の銭湯に行くとお湯が熱いと感じることがあると思いますが、これは「江戸っ子気質」が関係しているという説もあります。江戸時代中期ごろに、「江戸っ子」という言葉が生まれましたが、これは古来から都があった上方への対抗意識から生まれた言葉だそうです。江戸っ子は、上片に対し劣等感を感じており、その結果見栄っ張りなところがありました。風呂が熱くても「こんなぬる湯」と言って見栄を張り、「こんなぬる湯」と何食わぬ顔で入るのが江戸っ子の粋とされていたようです。
次回の記事では、江戸時代に始まり明治時代に終わりを迎えた銭湯における混浴文化についてです。