昔の銭湯は檜風呂だったということで、銭湯の歴史を振り返るシリーズでは檜と関わりの深い銭湯の歴史について紹介しています。

今回は、「混浴文化」についてです。

前回の記事、江戸時代の銭湯文化の成り立ちについてはこちらをご覧ください。

現在、町の銭湯や温泉に行くと男風呂、女風呂と分かれているのが当たり前ですが、実は銭湯文化が栄えた江戸時代は、男女混浴が当たり前でした。

そんな江戸時代から現代にかけて、どのように混浴が行われ、どのような形でなくなっていったのか、見ていきたいと思います。

 

なかなかなくならなかった混浴

混浴は、「入り込み湯」と呼ばれており、江戸時代末期まで続きました。当時、銭湯は今のように開放的ではなく、暗くて狭い湯船にかがみこんで入るような形式だったため、銭湯の中で、今で言うセクハラのようなことが起きることもしばしばあったみたいです。そのため、江戸幕府では何度か「混浴禁止令」が出されましたが、なかなか混浴はなくなりませんでした。

というのも、銭湯経営側としてはお風呂を二つに分けるということは単純にコストが2倍になることになります。ただし、それによってお客さんが2倍になるわけではないのです。禁止令が出されると、時間を男専用、女専用と分けて営業するところも出てきますが、そうなるとお客さんの数が半減してしまう。こうした状況により、寛政の改革や天保の改革で禁止令が出されたにも関わらず、混浴はなくなりませんでした。

 

混浴文化で活躍した湯女たち

江戸で混浴が行われていた頃、銭湯で風俗のように、女性が男風呂に入って背中を流したり、湯上りの男性を2階のお座敷で迎えて接待をする女性「湯女(ゆな)」が活躍しました。湯女がいる銭湯は、「湯女風呂」と呼ばれ、武士や職人など男性が多かった江戸では大変繁盛しました。

しかしその後、1637年に1施設につき湯女3人までという制限が設けられ、それを守らない湯女風呂が多かったため、1657年に禁止となり、湯女風呂はなくなりました。

 

混浴が完全廃止された明治時代

混浴が完全になくなったのは、明治時代になってからです。明治といえば、ペリーを代表とする西洋人が日本に来航した時代。ペリーは江戸の混浴を見て、「日本の道徳心を疑う」という批判を行ったため、明治政府が本格的に混浴廃止に向け動き出し、全廃止しました。

 

江戸時代までは男女関係はとってもおおらかだったのですね!
エステック アソシエイツは男湯にも女湯にも癒しの檜風呂をご提供し続けています。